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世界で60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超えるベストセラーとなった『アンネの日記(オランダ語原題:Het Achterhuis)』は、ナチス・ドイツ占領下のオランダで、ユダヤ人迫害から逃れるべくアムステルダムの〈隠れ家〉で潜伏生活を余儀なくされた人々の毎日が綴られた、ユダヤ系ドイツ人少女であるアンネ・フランク(Annelies Marie Frank, 1929~45)の日記です。その執筆は1942年6月12日から、ゲシュタポ(秘密警察)に捕えられる直前の1944年8月1日までの2年余りに及んでいます。
アンネは1929年6月12日、第1次大戦で中尉にまで昇進したオットー・フランクの二女として、ドイツのフランクフルトに生まれました。1933年に反ユダヤ主義を掲げるヒトラーのナチ党が政権を握ると、迫害を逃れるために一家はドイツを離れてオランダのアムステルダムへ逃れました。
しかし1939年に第2次世界大戦が勃発、翌年5月にオランダはドイツ軍によって占領されます。オランダ総督(国家弁務官)に就任した親衛隊(SS)のザイス=インクヴァルト中将は、当初のごく短い期間に限って穏健な占領政策を行ったため、オランダの行政機能はこれまでと大きく変わらず、反ユダヤ主義も即座にオランダに広まることはありませんでした。メリッサ・ミュラー著『アンネの伝記(1999年)』によると、アンネ自身もこの頃はまだ将来への強い不安は感じていなかったようです。
ところが、オランダに続いてベルギーがドイツに降伏、6月にフランスが無血占領されてドイツ情勢が安定を見ると、オランダ在住のユダヤ人にも次第に迫害の手が及び始めます。まずユダヤ人とその企業の登録が義務づけられ、さらに翌年にはユダヤ人の映画館入場が拒否されました。ハリウッドの著名な映画スターの写真をコレクションするほど映画好きだったアンネにとって、これは相当ショッキングな出来事だったことが推察されます。その後もユダヤ人は公園、プール、公衆浴場やホテルなど公共施設の立ち入りが禁止され、この年8月にはユダヤ人学校以外に通うことを禁ずる法律が公布されました。このためアンネはこれまで通っていたモンテッソリ・スクール(この学校でアンネはサンネとハンネリというふたりの友人と親しくなります)から、3歳上の姉・マルゴー共々転校を余儀なくされますが、このユダヤ人中学校で新たな親友となる「ヨーピー」ことジャクリーヌ(ジャック)と出会います。
占領下オランダでの反ユダヤ政策は日増しに色濃くなり、ファシズム政党である「オランダ国家社会主義運動(NSB)」以外のすべての政党が禁止されてしまいます。1942年になると、ドイツや他のドイツ占領国同様にオランダのユダヤ人にも黄色いダヴィデの星を衣服につけることや、当局への自転車の提出、外出制限などが相次いで義務化されました。
そんな厳しい生活を強いられていた1942年6月12日。アンネは13歳の誕生日プレゼントとして父・オットーからサイン帳を贈られます。彼女はこのサイン帳を「キティ」と名づけ、日記帳として日々の出来事や自身の想いを赤裸々に綴りました。これがのちに世界的に知られることになる『アンネの日記』です。彼女は日記の書き出しを次のように記しています(深町眞理子訳による『アンネの日記 研究版(1994年)』から引用)。
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。
どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね。
― 1942年6月12日
1942年7月5日、マルゴーに対してユダヤ人移民センターへの出頭命令通知が届きました。これに応じることは危険だと判断したオットーは、かねてから秘かに準備していたプリンセンフラハト263番地にあるオットーの会社「トラフィス商会」と「ペクタコン商会」が入る建物の3階と4階に作られた〈隠れ家〉での潜伏生活に入ることを決意します。翌6日早朝、まずトラフィス商会の従業員で支援者であるミープ・ヒースが、マルゴーと共に雨の中を自転車で向かい、続いてアンネとオットー、母のエーディトが徒歩で〈隠れ家〉に逃れます。フランク家が住んでいたアパートには、オットーが下宿人に宛てて手紙を置き残し、そこには一家がスイスへ脱出することをほのめかす内容と、アンネが飼っていた猫のモールチェを託したい旨が記されていました。
その後ほどなく、ほか4名のユダヤ人を合わせた計8名による〈隠れ家〉での潜伏生活が始まり、アンネの日記にはその日々が綴られることになります。
〈隠れ家〉で潜伏生活を送る人々
※数字は1942年時点での満年齢
●オットー・フランク(53)アンネの父
●エーディト・フランク(42)アンネの母
●マルゴー・フランク(16)アンネの姉
●アンネ・フランク(13)
●ハンス・ファン・ダーン(44)ペクタコン商会相談役
●ペトロネッラ・ファン・ダーン(42)ハンスの妻
●ペーター・ファン・ダーン(16)ハンスの息子
●アルベルト・デュッセル(53)歯科医師
〈隠れ家〉での生活を援助した人々
●ヴィクトル・クラーレル(42)トラフィス商会、ペクタコン商会の重役
●ヨー・コープハイス(46)ペクタコン商会監査役
●ミープ・ヒース(33)トラフィス商会従業員
●ヘンク・ヒース(37)ミープの夫、アムステルダム市社会福祉局勤務
●エリー・フォッセン(23)トラフィス商会事務員
日記における〈隠れ家〉での日々の記述は、当然のことながら思春期の少女であるアンネの視点で描かれています。そのため、母・エーディトとのすれ違いから生まれる彼女への批判や、成績優秀で清楚な姉・マルゴーへの嫉妬などの記述も多く見られます。しかし、同時にそれらを反省する自身の心の変化も綴られており、成長と同時に揺れ動く複雑なアンネの心境を伺うことができます。
また、潜伏生活を共にするファン・ダーン夫妻やデュッセルに対しても、決して飾ることなく率直な眼差しで彼らを評しています。不自由な暮らしの中でそれぞれが身勝手な主張をする様子や、子供扱いされることで生じるアンネの不満、そして彼らとの衝突を、臆することない舌鋒で「キティ」に告白しています。しかしそんな描写こそ、ファン・ダーン夫妻やデュッセルを含めた〈隠れ家〉の住人がごくありふれた「普通の人々」であり、人種や宗教によって差別を受ける理由など存在しないということを改めて示しています。
決して他人に見つかってはいけない〈隠れ家〉での生活は、次第に多くの困難を迎えることになりました。もともと様々な制約(昼間は足音を消すため靴を脱がなければいけない、トイレは夕方以降しか使えない、カーテンを開けてはいけない、など)のある生活で、食糧や日用品はミープやエリーが調達していましたが、1944年に入るとオランダ中の食糧事情が悪化したうえ、野菜を入手していた八百屋の主人がユダヤ人を匿っていた罪で逮捕されたため、その確保が難しくなります。ひもじさ故に〈隠れ家〉の住人たちの心がすさみ、些細なことで言い争いが起こることも少なくありませんでした。
また医者を呼べないことから、いったん病気になると大変なケアを要します。1943年の冬にアンネがインフルエンザにかかると、周囲の大人たちは総がかりで必死に看病をしました。さらに夜になると、連合軍の空襲の恐怖に怯えることが多くなり、仮に爆弾が落ちても逃げようがない状況でした。ほか電力や暖房の制限なども、彼らの生活に大きなストレスを与えることになります。
そんな生活を送るアンネたちですが、日記には楽しい思い出も描かれています。新年のお祝いや〈隠れ家〉の住人の誕生日、ユダヤ教のハヌカの祭りなどの席では、元来陽気な性格のハンスが冗談を言って周囲を笑わせた様子も綴られています。
また、ペーターとの関係は次第に恋仲へと発展していきます。彼らは大人たちの心配をよそに、屋根裏部屋でふたりきりで長い時間を過ごすようになりました。恋愛に悩むアンネの心境を綴った日記の中では、ペーターと初めてキスをした記述も見られます。
どんなに絶望的な状況に陥っても、アンネが最後まで希望を捨てることはありませんでした。1944年7月の日記には、次のような記述があります。
自分でも不思議なのは、私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。
だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。
にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。
例え嫌なことばかりだとしても、人間の本性はやっぱり善なのだと。
― 1944年7月15日
アンネの日記はこの後7月21日の記述を経て、その次の8月1日火曜日を最後に終わっています。
1944年8月4日の午前。プリンセンフラハト263番地の建物前に停車した車から降り立った制服姿の親衛隊保安部(SD)分隊長と数名のオランダ人私服警察官によって、アンネたち〈隠れ家〉の住人と、彼らを匿っていたクラーレル、コープハイスは逮捕されます。彼らが捕まったのは、何者かの密告によるものだといわれていますが、その詳細は現在でも明らかではありません。
ゲシュタポ本部へ連行された10名のうち〈隠れ家〉の8名は、その後アムステルダム市内の拘置所での勾留を経て、8月8日にオランダ北東部のヴェステルボルク通過収容所に送られたのち、翌9月にはポーランドにあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送されます。ここで男女が分けられ、アンネ、マルゴー、エーディトは父・オットーと引き離されました。収容所の衛生状態は劣悪で、アンネやマルゴーはシラミやダニに苦しめられますが、母・エーディトはそんな娘たちに献身的に尽くし、僅かなパンも分け与えていました。
10月、ソ連赤軍の接近に伴いアウシュヴィッツの撤退準備が始まると、収容者の「選別」が行われ、アンネとマルゴーはベルゲン=ベルゼン強制収容所へ送られることとなり、エーディトとはこれが最期の別れとなります。移送先となったベルゲン=ベルゼンの環境もまた想像を絶するもので、食事もろくに与えられず、餓死者と病死者が続出する状態でした。アンネとマルゴーの姉妹は次第に弱っていきますが、キャロル・アン・リーの著書『アンネ・フランクの生涯(2002年)』によれば「アンネは就寝後によく話を聞かせてくれた。(中略)大概は食べ物の話だった」「アンネはいつも言うのだった。『私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある』と(収容所でアンネと過ごした生還者の証言)」。
11月になって、ベルゲン=ベルゼンに移送されて来たペトロネッラと再会したアンネは、彼女から収容所内の別区画に親友のハンネリがいることを聞かされ、有刺鉄線越しに度々会うことができました。しかし翌45年2月頃から、アンネの姿は見られなくなったといいます。
この頃のアンネの詳細は、戦後生還を果たした数少ない目撃者の断片的な証言を残すのみであるためはっきりとしていません。衰弱したアンネとマルゴーの姉妹はチフスにかかり、まずマルゴーが、そしてその2、3日後にアンネが息を引き取ったとみられ、1945年2月の終わりか3月の初め頃と推測されています。
アンネと共に〈隠れ家〉で暮らした住人は、オットーを除いた全員が強制収容所で死亡しました。オットーはオランダ解放後にアムステルダムへ戻り、逮捕を免れていたミープから保管していたアンネの日記を遺品として渡されます。日記をタイプし直したオットーは当初、ごく限られた関係者にのみ私家版として配っていましたが、これが反響を呼んだことで、1947年に『Het Achterhuis(後ろの家)』のタイトルでオランダ語の初版が出版されました。ほどなく各国の言語に翻訳され、1950年にはドイツ語版とフランス語版、52年には英語版が出版されます。
日本でも1952年に『光ほのかに~アンネ・フランクの日記(皆藤幸蔵訳)』というタイトルで初出版されましたが(のち『アンネの日記』に改題)、日本語版の出版に際しては当初、かつてオランダ植民地であったインドネシアで日本と敵対したこと、また日本がナチス・ドイツの同盟国であったことからオランダ国内でその発行に強い抵抗があったといわれています。
この事実に関しては、1994年に『アンネの日記 増補新訂版』を著した深町眞理子さんの「訳者あとがき」に以下の記述がありますので、そちらを引用させていただきます。
「不幸にして我が国は、アンネを含む数百万のユダヤ人を抹殺したナチス・ドイツの同盟国だったという歴史を背負っています。その責任を忘れないためにも、この本がさらに新たな読者を得て、長く生命を保ち続けることを願ってやみません」。
上の映像は、アムステルダムの博物館「アンネ・フランクの家」が公開した、
生前のアンネを映した唯一のものです。
1941年6月、隣人の結婚式に際し、
建物の窓から身を乗り出す当時12歳のアンネの姿が映っています。
右の映像は、アムステルダムの博物館「アンネ・フランクの家」が公開した、生前のアンネを映した唯一のものです。
1941年6月、隣人の結婚式に際し、建物の窓から身を乗り出す当時12歳のアンネの姿が映っています。

1941年、12歳頃のアンネ。


ベルリンのアンネ・フランクセンター
に展示されているアンネの日記帳。
オフィスから〈隠れ家〉に通じる回転式の本棚。

プリンセンフラハト263番地、オットーの会社が入る建物。

アンネ・フランクと
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