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オーストリアからオランダへ

 ミープことヘルミーネ・ザントロシェッツHermine Santrouschitz)は1909年2月、オーストリアのウイーンに生まれました。1914年、彼女が5歳のときに第1次世界大戦が勃発、戦時中の食糧不足から栄養失調になったとされます。1918年にオーストリアなどの同盟国が降伏して大戦は終結を迎えますが、戦後の食糧事情はさらに悪化し、さらに翌年妹が生まれると、一家の生活はより逼迫した状態になりました。

 当時、そのような事情を抱えた家庭は数多く存在しており、人道的な観点から諸外国でオーストリアの子供たちに対する救済活動が行われることになります。1920年12月、11歳のヘルミーネもその一環で3ヵ月の間、オランダ中西部のライデンに住む二ーウェンハイス夫妻のもとへ里子に出されることになりました。

 夫妻には5人の子供がおり、養父は石炭会社の現場監督を務める労働者でした。決して裕福な家庭ではありませんでしたが「7人が食べていけるのなら8人でも何とかなる」という姿勢のもと、ヘルミーネに栄養をつけさせることに尽力します。彼らはオランダ人には発音しづらい「ヘルミーネ」という名前に変えて、親愛の情を込めたオランダ語の愛称「ミープ(Miep)」と呼ぶようになりました。

 ミープのオランダ滞在は3カ月の予定でしたが、なかなか健康状態が回復しなかったため医師の診断で延長を繰り返すうち、ミープはニーウェンハイス一家に溶け込み、実の家族同然になっていったといいます。1922​年に一家は南アムステルダムに移住しました。16歳のときに里親に連れられて一時帰国し、ウイーンで実の両親と再会しますが、既にオランダ人としての自覚を持ち、ウイーンでの生活を望まなかった彼女に実母も理解を示したことで、その後もミープはアムステルダムでの生活を続けることになります。

 1927年、高校を卒業したミープは繊維会社に事務員として就職しました。このとき知り合ったのが、当時会社の簿記係として勤務していたヘンクヒースで、彼はのちにミープと生涯を共にする男性となります。

 ミープが22歳になった1931年、彼女は実の両親に会うため再度ウイーンを訪れました。それまでも定期的に手紙のやり取りを続けながら、経済的に余裕のあるときには仕送りもしていたミープでしたが、彼女は後年、アリソン・レスリー・ゴールドとの共著『思い出のアンネ・フランク(1987年)』の中で、当時の心情を次のように記しています。

​「書類の上で、私は依然としてオーストリア国民だった。けれどもオーストリアの父と母、そして妹に別れを告げたときには、心の中にはもう、自分の帰属すべき場所について一点の疑念もなくなっていた。(中略)オランダこそは将来にわたって、永久に私の祖国となるはずだった」。

トラフィス商会への入社とアンネとの出会い

​ アメリカで始まった世界恐慌の波はヨーロッパにも飛び火し、ミープは1933年に他の従業員共々会社を解雇されます。若年層の失業率も高い時代でしたが、独立心旺盛な彼女は一日も早い再就職を願っていたといいます。そんな折、ミープが暮らす養家の入るアパートに住む女性から、ジャム作りに用いるペクチンを製造する「オペクタ商会(のちにアンネが記した日記では「トラフィス商会」となっています)」を紹介されました。これを受けてミープはアムステルダム中央駅南西に位置する繁華街、ニーウェザイズ・フォールブルクヴァルのオフィスに赴いてオットー・フランクと出会い、彼の面接を受けます。会社の経営者であるオットーは、この年ドイツで首相となり権力を掌握したヒトラー反ユダヤ主義政策に危機感を感じてフランクフルトから逃れて来たユダヤ人でした。彼は病欠の女性事務員に代わる臨時社員としてミープを即決採用し、ジャム作りに関してひと通りの知識を与えていきます。

 ジャムの消費者である主婦の苦情や相談を受ける仕事を任されたミープは、次第に簿記やタイピング、また会社の広告やマーケティングなどもこなすようになり、社内の「何でも屋」として欠かせない存在となりました。病欠していた事務員が復職してからも正社員としてそのまま会社に残り、トラフィス商会の業績向上に貢献していきます。彼女とオットーの間には信頼関係が生まれ、それは政治的・社会的問題に関して同じ立場にあったと、ミープはのちに述べています。

私は人を憎んではいけないと教えられて育ったが、最近ドイツで権力を握ったあの狂信的なアドルフ・ヒトラーだけは、どうしても支持できなかった。フランク氏も同じ気持ちだったが、彼の場合はユダヤ人だから、その感情にはもっと個人的なものも混じっていた」「これまで私はユダヤ民族について、良くも悪くもそう突き詰めた感情は持っていなかった。アムステルダムでは、彼らの存在は完全に都市生活の一部になりきっていて、全然異質さを感じることはなかったからだ。だから、ヒトラーが彼らを差別するために特別な法律を制定するというのは、全く不当としか思えなかった(『思い出のアンネ・フランク』より)」。

​ ほどなくして、オットーは南アムステルダムのザウト地区・メルヴェデプレイン37番地のアパートを借りてドイツから妻子を呼び寄せます。そしてこの頃、ミープは初めてオットーから、オフィスにやって来た彼の妻・エーディトと、そして二女のアンネを紹介されました。当時まだ4歳だったアンネの最初の印象について、ミープは次のように述懐しています(上記著書より)。

ふわふわした白い毛皮のコートにうずくまった少女は、真っすぐに私を見上げ、それから軽く膝を曲げて会釈した。(中略)小さなアンネははにかみ屋で、最初は絶えず母親にまつわりついていた。けれどもその、大きな、きらきらした、敏捷な、黒目がちの目 ―― 小づくりな、繊細な顔の中でひと際目立つその目は、周囲の全てを貪欲に吸収していた」。

ナチス・ドイツのオランダ占領

 1934年に総統となって独裁権力を固めたヒトラーのナチス・ドイツは、国内のユダヤ人への弾圧をいっそう強めていくのと同時に、翌1935年にはヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言します。ヨーロッパ情勢が不穏な展開を辿る中、ミープはアムステルダム市役所でソーシャルワーカーとなっていたヘンクとの親密な関係を深めていきました。ふたりは共にモーツァルトの愛好家であり、毎週のようにユダヤ人地区にある劇場で映画を楽しみ、またやはりユダヤ人地区で催される露天市場を散策したといいます。

 1937年、トラフィス商会はそれまでの社屋からやや南に位置したシンゲル400番地へ移転します。この頃ミープはヘンクと共にフランク家の夕食に招かれ、当時11歳の長女・マルゴーとも初めて顔を合わせました。フランク夫妻とミープ、ヘンクは反ファシズム・反ファシストという点で一致し、当時内戦が続いていたスペイン情勢などについて語り合ったといいます。そしてこれ以後、ミープはたびたびオットーからフランク家の食事に誘われることになりました。

 翌1938年3月、ミープの故郷・オーストリアがドイツに併合されます(アンシュルス)。これにより彼女はドイツ国籍となりますが、彼女にとって黒い鉤十字のスタンプが押されたパスポートを所持することは堪え難いものでした。1939年になり、チェコスロバキアがドイツ軍によって解体されると、オランダ政府は軍隊を動員して警戒態勢を敷くいっぽう、絶対中立を宣言します。そうした緊迫する情勢は、ミープとヘンクにふたりの将来について真剣に考える機会を与えました。当時のアムステルダムは、様々な政治的・宗教的圧力を逃れてきた難民で溢れており、またふたりは決して経済的に豊かとはいえませんでしたが、新生活を始められる住居が見つかり次第結婚することを決心ます。

 そのような状況の中、9月にポーランドへ侵攻したドイツに対してイギリス、フランスが宣戦布告、第2次世界大戦が勃発します。勢いに乗じたドイツは1940年4月、北欧のデンマークとノルウェーに相次いで侵攻、そして5月、ベルギー、ルクセンブルクと共にドイツの攻撃を受けたオランダは僅か4日で降伏し、ナチス・ドイツの占領支配が始まりました。ミープは当時のオランダの人々について、次のように語っています。

私たちから見れば、ふたつの立場しかなかった。“正しい”人たち、どんなことがあってもナチに抵抗する忠実なオランダ人たちと、“誤った”人たち、ナチに協力するか同調する人たち、このふたつだ。中間は存在しない」。

 そんなミープの生活にも、大きな転機が訪れます。オットーの紹介で、メルヴェデプレインに程近いフンゼストラート25番地のアパートに住む年配のユダヤ人女性から部屋を間借りできることになり、ミープはヘンクと共に新しい生活をスタートさせました。この女性は写真技師の夫と暮らしていましたが、イギリスへ脱出する娘夫婦の一家(アムステルダムから南東30kmほど離れたヒルフェルシュムに住んでいました)に別れを告げようとオランダ北西部の港・アイモイデンまで追いかけて行った夫は、いつの間にか自身が船に乗ってイギリスへ運ばれてしまったため、ひとり取り残されたことに不安を感じて部屋を貸し出すことになったといいます(娘夫婦の一家は結局乗船できず、ヒルフェルシュムに引き返していました)。

​ またこの頃トラフィス商会は、スパイスを取り扱うもうひとつの会社「ペクタコン商会(1938年に設立)」と共にその業績が拡大しており、シンゲル400番地のオフィスが手狭になったことから、12月にアムステルダム中心部から西に位置するプリンセンフラハト263番地に事務所を移転させました。

 ヘンクと共に暮らすミープの新居での生活は、彼女に大きな幸せを与えることにはなりましたが、アムステルダムでも「ドイツ化」の流れが確実に加速していきます。街にはドイツの秘密警察ゲシュタポ;緑色の制服を着ていたことから「グリューネ・ポリツァイ」とも呼ばれました)の姿が多く見られるようになり、図書館や書店からはドイツにとって好ましくないとされる書物が撤去され、映画館ではドイツ映画しか上映されなくなりました。条令によってBBC(イギリス公共放送)を聴くことも禁止されますが、それでもミープとヘンクはロンドンから毎晩流れるオランダ亡命政府の放送「ラジオ・オラーニェ」に耳を傾けていました。

 ナチス・ドイツ占領下のオランダでは、いわゆる「オランダナチ」と呼ばれた「オランダ国家社会主義運動(NSB)」以外の政党が禁止されており、これを支持していたオランダ人は10万人ともいわれています。これは当時の全人口の1.5%に過ぎなかったものの、大きな力を持っていたことは確かでした。メリッサ・ミュラーは著書『アンネの伝記(1999年)』の中で次のような見解を述べています。

大半のオランダ・ナチはそれまで、反ユダヤ主義とは縁がなかったどころか、大勢がむしろユダヤ人と親しい付き合いをしていたが、それでも次第にユダヤ人誹謗の言葉に惹かれていった。何故か? それは彼らが利益を望んだからである。経済第一。だがその他にも利点があった。強さと優越感への渇望、自己顕示欲、そして単なる愚かさ。いずれにせよオランダ・ナチは〈自分たちの力〉を世間に広く誇示することを、もはや躊躇しなくなった」。

結婚、そして念願のオランダ人に

 1941年も春を迎える頃、ミープに突然ドイツ領事館への召喚状が届きます。彼女はそれ以前にナチ党の女子青年団加入を拒否しており、領事館でその事実を確認された後、所持するパスポートが無効になったために3ヵ月以内にウイーンへ帰らなければならないことを告げられました。この絶望的な状況を解決する手段として、彼女はヘンクと結婚してオランダ国籍を取得することを決意します。しかしそのためにはウイーンから出生証明書を取り寄せなければならず、それは例え戦時下でなくとも手続きに1年はかかるものでしたが、オットーのアドバイスやウイーンに住む親族の協力など、周囲の人々の支えとミープ自身の幸運によって6月には証明書を手にすることに成功し、7月16日にふたりはささやかな結婚式をあげます。そしてミープはこの結婚により、念願のオランダ国籍を手に入れました。式にはオットーに連れられたアンネも同席しており、前述の著書『思い出のアンネ・フランク』には以下の記述があります。

アンネの視線は落ち着きなくヘンクへから私へ、またヘンクへと往復した。終始父親のそばを離れず、しっかりその手を握っていた。おそらく私たちのようなロマンチックな花嫁花婿を、実際にその目で見るのは初めてだったろう。ヘンクを見る様子から察するに、彼を俠気(おとこぎ)に富んだ颯爽たる人物と見ているようだ。ひょっとして私のことも、同じように見てくれているのだろうか? 12歳の少女にとっては、こういうかたちでの結婚式というのは最高にロマンチックなものだろうから」。

 1942年1月、アムステルダム周辺の町に住むユダヤ人に対して、直ちに市内へ移るよう命令が下ります。ミープとヘンクが暮らすフンゼストラート25番地のアパートの家主であったユダヤ人女性の娘夫婦は、ふたりの子供と依然ヒルフェルシュムに住んでいましたが、彼女たちも例外ではありませんでした。ミープとヘンクはこの一家のため部屋を明け渡すことを申し出ますが、家主女性は「3人が住めるものなら7人でも住めないことはない」と言ってふたりを引き留めます。それはかつて、幼いミープが身をもって感じた養父母の「7人が食べていけるのなら8人でも何とかなる」という、行き場を失い窮地に陥った弱者への眼差しそのものであり、間もなく彼女が命を賭してオットーらの潜伏生活を援助する原動力に直結するものであったことは間違いないと推察されます。これに対してミープとヘンクは、日中はなるべく外で過ごすことで家主女性の配慮に応えようと努めていました。

 そんなある日、ミープはオットーからひとつの計画を打ち明けられます。それは、フランク家の4人とペクタコン商会の相談役を務めていたハンス・ファン・ダーンの一家3人、計7名のユダヤ人が潜伏生活を始めるというもので、その潜伏先こそトラフィス、ペクタコン両社が入るプリンセンフラハト263番地の建物の3階と4階、そして屋根裏部屋に秘かに準備された〈隠れ家〉でした。オットーはミープにその支援を求め、彼女は即座にこれを引き受けます。ユダヤ人を匿うことは、非ユダヤ人である彼女にとっても大変な危険が伴うものでしたが、これについては前述の著書で次のように記しています。

​「一生に一度か二度、ふたりの人間のあいだに言葉では表せない何かが通うことがある。今、私たちのあいだにその何かが通い合った」。

 オットーから請われて援助を承諾したのは、ミープのほかヘンクと、両社の重役だったヴィクトルクラーレル、ペクタコン商会監査役のヨー・コープハイス、そしてトラフィス商会事務員のエリーフォッセンの非ユダヤ人5名でした。またのちに事務所の倉庫係となるエリーの父ヨハンは病気のため積極的な支援こそできませんでしたが、オフィスの3階から〈隠れ家〉へ通じるカモフラージュのための本棚を作りました。オットーはこうした「オランダの友人」たちの協力を得たことで、計画を実行に移すその日を7月16日に決めたとされます。

命を懸けた支援生活

 7月5日、日曜日の午後。ユダヤ人移民センターからの呼び出し状がフランク家に届きました。それはオットーに宛てたものではなく、僅か16歳のマルゴーに強制労働を命じたものであったことから、書留を受け取ったエーディトが受けたショックは計り知れません。彼女は帰宅したオットーにこのことを伝え、オットーは計画の前倒しを決心します。その日のうちにこの逼迫した事態を知らされたミープとヘンクは、夜間外出が制限されていたフランク家の人々(ユダヤ人は20時以降の外出を禁じられていました)に代わって衣類などの運び出しを行い、準備に取りかかりました。

 翌日早朝、降りしきる雨の中を自転車に乗り、ミープとマルゴーはプリンセンフラハト263番地へ向かいます。当時ユダヤ人は所有する自転車を当局へ供出することが義務づけられていましたが、フランク家ではそれをしていませんでした。何着もの衣服を重ね着したマルゴーの左胸からは、やはり取り付けが強制されていた「ダヴィデの星」が外されていました。午後にはオットーらも徒歩で〈隠れ家〉に到着し、こうして彼らの潜伏生活が始まります。

 13日からはファン・ダーン一家が合流、当初は7名での〈隠れ家〉生活でしたが、ほどなくミープが治療を受けていた歯科医師のアルベルト・デュッセルが潜伏先を探していることを知ると(非ユダヤ人がユダヤ人の医師や歯科医の診察を受けることは禁止されていましたが、ミープは無視していました)、彼女はオットーに相談して、11月16日にコープハイスの案内で彼を〈隠れ家〉へ招き入れ、計8名の暮らしを援助することになります(ファン・ダーンの息子のペーターがムッシーという雄の黒猫を連れていたため、正確には8名と1匹)。彼女はエリーと共に、おもに食糧や日用品の調達を行っていましたが、占領下で日増しに食糧難と物資不足で自分たちの生活もままならない中、また一度に大量の品物を手に入れると怪しまれてしまう状況でそのような支援を行うことには、相当な労力を要したことが想像できます。

 この頃になると、いわゆる「ユダヤ人狩り」と呼ばれる警察の一斉検束(ラツィア)が頻発するようになり、アムステルダムも例外ではありませんでした。無人となったユダヤ人の家からは「ピュルス」と呼ばれる専門の運送会社のトラックによってあらゆる家財が運び出され、ほどなく優先的にNSBの党員一家が移り住んだといわれています。ヒース夫妻が暮らすフンゼストラート25番地の家主女性の娘夫婦も必死に潜伏先を探していましたが、ある晩この娘夫婦はアムステルダム中央駅でグリューネ・ポリツァイに連行され、そのまま消息を絶ちました。ミープはヘンクと共に残されたふたりの子供のため奔走し、ある学生組織を通してこの幼い兄妹にそれぞれ里親となる人物を見つけることに成功します。

 孫の安全が確保できて安堵した家主の女性も、自ら安全な場所を見つけて身を隠すことを決めますが、それを告げられたふたりは敢えて詳しい行き先を聞こうとしませんでした。彼女の頼みで、ヘンクはアパートを自分の名義に変更します。それは彼女の大切な私財が持ち出されることを防ぐ手段であり、彼女や彼女の夫が帰って来たときに返却できるようにするための行動でした。

 しかし、その後しばらくして届いた手紙によって、この女性がヒルフェルシェムに潜伏していることを知ったミープは、ヘンクと共にしばしば彼女のもとを訪れるようになります。それは夫や娘夫婦、そして愛する孫たちと引き離されて孤独な生活を送る彼女の求めに応じたものでした。

 1943年の春にふたりがヒルフェルシュムを訪れた際、彼女が身を寄せる家の持ち主である女性(非ユダヤ人)から、ドイツへの忠誠を誓う宣誓書の署名を拒否した大学生の息子がいることを聞きます。当時はオランダ各地の大学でこうした強要が行われており、これに反発することはユダヤ人でなくても逮捕・投獄の危険がありました。ミープとヘンクはプリンセンフラハトの〈隠れ家〉の8名とは別に、自分たちが暮らすフンゼストラートのアパートでこの大学生を匿うことを決断します。これについては余計な心配をかけないよう、オットーらにも秘密にしていました。

暗黒の日々

 ミープはのちに自らの体験について、世界中から寄せられた多くの質問に答えました。その中で、彼女は当時の生活について次のようにコメントしています(ウェブサイト『Miep Gies her own story』より。原文オランダ語)。

「(大戦下の暮らしは)恐怖でした。ドイツを降伏させるために上空を飛び交う何千という爆撃機、それを狙撃するナチスと、攻撃する戦闘機。撃墜されたたくさんの飛行機が、いつ私たちの上に落ちてくるかも分かりません。それよりも怖いのは、自分の仲間さえ信じられないことです。お金やその他の利益のために、ドイツ軍に加担している者が幾人もいるのです」。

​ 1944年に入り、ドイツの戦況が劣勢になったことは彼女たちに希望をもたらしますが、オランダの占領政策も厳しいものになっていきます。オランダ人の強制徴用が激しくなり、食糧難もいっそう深刻化していました。5月、ミープが野菜を調達するのに便宜を図ってくれていた青果店の主人が、ユダヤ人を匿っていた罪で逮捕されます。この男性がミープらの行動をどこまで知っていたかは分かりませんが、彼女が彼の身を案じると同時に〈隠れ家〉の存在が明るみになるのではないかという大きな不安に襲われたことは想像に難くありません​。

 とはいえそのような状況下にあっても、6月6日に始まった連合軍によるノルマンディー上陸作戦(Dデー)のニュースは、ミープはもちろん〈隠れ家〉の住人たちに明るい希望を与えました。

​ しかし8月4日の金曜日。ミープにとって一生忘れられないことになる「その日」は突然訪れます。

 この日の朝、いつもと同じようにプリンセンフラハトの〈隠れ家〉へ買い物リストを受け取りに行ったミープに、アンネは少しの間お喋りをしないかと誘いますが、仕事を抱えたミープは午後になるまで待ってもらうよう答えたといいます。

 正午近くになり、親衛隊保安部(SD)の制服を着た男と拳銃を手にしたオランダ人私服警察官数名が突然オフィスに現れました。その直後にヘンクが昼食をとりにやって来ますが、ミープはこの男たちが別の部屋に入った隙に、ヘンクに闇の配給切符と現金を渡して彼を追い返します。またコープハイスは怯えるエリーを逃がすことに成功し、ミープにもオフィスから出るよう促しますが、彼女はその場に留まりました。ミープはこのSD分隊長が話すドイツ語に聞き覚えのある訛りがあったため、彼が自分と同じウイーン出身者であることに気がつきます。ミープの回想によれば、彼女の身分証を確認した分隊長も困惑と苛立ちの態度を隠せなかったようです(ナチス親衛隊に所属していた彼にとって、ミープの行動は到底理解できなかったと思われますが、結果的に彼女は逮捕を免れました)。

 ミープたちが命を賭して守り続けた25ヵ月に及ぶ8人の〈隠れ家〉生活は、こうしてあっけなく終わりを迎えました。彼らとクラーレル、コープハイスは逮捕・連行されますが、残されたミープが悲嘆に暮れる暇はありませんでした。夕方になり、オフィスへ戻って来たエリーと共に〈隠れ家〉へ入ったミープは、無残に荒らされた室内からアンネの日記帳を発見します。それはアンネたちが潜伏生活を始める少し前、彼女が13歳の誕生日にオットーからプレゼントされたものでした。

 自らの秘かな思い、胸の内を書き綴ったこの日記帳がアンネにとってどれほど大切なものだったか、ミープはよく知っていました。ゲシュタポによる捜索でこれが持ち去られることを危惧した彼女は、日記帳とアンネが書き残したたくさんのメモ(彼女はこの日記帳を使いきったあとも、ミープらが差し入れた紙に日々の出来事を書き続けていました)、アンネの化粧ケープ、エーディトのコンパクトなどをエリーと抱えて運び出します。

 翌週月曜、ミープは更に決死の行動に打って出ます。それは、南アムステルダムのエーテルペストラートにあるゲシュタポ本部へ乗り込み、あのオーストリア出身のSD分隊長に「いくら支払えば〈隠れ家〉で捕えた人々を釈放してくれるか」直接交渉するというもので、大変危険な賭けでした。結局彼女は、ゲシュタポ本部でSD分隊長に面会することはできたものの、既に彼の裁量を離れた案件となったことを告げられます。もはやオットーらを解放させる術は何もありませんでした。ほどなくピュルスによって〈隠れ家〉のあらゆる物が持ち去られますが、ペーターの愛猫・ムッシーだけはそこに残されたため、ミープが事務所で面倒を見たといいます。

​ トラフィス商会の業務は、オットーに代わり社長となっていたコープハイスも、また実質的な運営者であったクラーレルも逮捕されたため、ミープが代理管理人を務めることで継続されました(ペクタコン商会には既に解散命令が出されていました)。彼女が非ユダヤ人で、なおかつ〈隠れ家〉の件でも逮捕を免れていたことから、事務所の品物についてはピュルスも手が出せなかったため、ミープはアンネの日記をデスクの引き出しに入れて保管します。彼女はこの日記をアンネに返す日が遠からず来ることを信じており、彼女自身はもちろん、他の誰であろうとこれに目を通すことを許しませんでした。

 〈隠れ家〉の発覚から1ヵ月も経たない8月25日、連合軍によってパリが解放され、翌9月にはベルギーが解放されます。オランダでも、多くの人々が解放の日が近いことを期待しました。

 そんな中、健康上の理由から国際赤十字の要請によって釈放されたコープハイスがアムステルダムに戻り、ミープと再会します。しかし、クラーレルを含めて連行された他の人々の消息は依然知れず、ただひたすら連合軍の到来を待つ日が過ぎていきました。

オランダ解放とオットーの生還

​ 1944年10月、アメリカ軍との戦いでドイツ西部のアーヘンが陥落します。ドイツ国内の都市として最初に連合国の手に落ちたアーヘンはエーディトの故郷であり、アンネとマルゴーがアムステルダムに移り住む直前に祖母と暮らした街でした。オランダと国境を接していたため、多くのオランダ人の期待は確信に近づいたことでしょうが、それでもその思いが現実となるにはまだ時間を要しました。

 この頃には既に、膨大な数のオランダ人が強制徴用と労働のためにドイツへ移送されており(その数は最終的に500万人とも推定されます)、同時にこれを逃れて潜伏した者も多いことから、街頭では若い成人男性を見かけることがなくなったといわれるほどでした。ヘンクが市役所に勤める公務員だったとはいえ徴用されずにいたことは「奇跡以外の何ものでもなかった」とミープは著書に記しています。またこの年の冬は例年にない寒さに襲われ、河川や運河の凍結で物資の運搬も滞ったことで、石炭、ガス、電気といったあらゆる資源が不足して市民生活はいっそう困窮します。アムステルダムの美しい街並みを飾っていた街路樹は薪として伐り倒され、人々は僅かな食糧でその日その日を乗り越えなければならず、この「飢餓の冬」と呼ばれた厳しい寒さは翌年4月に入っても続きました。

​ 5月5日、ようやくオランダは5年に及ぶナチス・ドイツの支配から解放の日を迎えます。ドイツ軍は7日に降伏文書に調印、翌8日にこれを批准して、ヨーロッパにおける戦争が終結しました。アムステルダムに到着したカナダ軍は熱烈な歓迎を受け、数日にわたって祝賀行事が催されますが、自由な記事を書くことを許された新聞からその後もたらされたのは、ナチス・ドイツの強制収容所についての想像を絶する信じ難い情報でした。占領下においても、これら収容所における劣悪な生活環境や暴力、そしてガス室の噂はありましたが、実際に新聞に掲載されたショッキングな写真や目撃証言は、多くの人々の想像を遥かに超えたものでした。

 ゲシュタポに連行されていたクラーレルは、ほどなくして生還し会社に復帰を果たします。しかし依然オットーやアンネらの行方は知れないままでした。アムステルダム中央駅勤務に配置替えとなっていたヘンクは、各地から帰還して来る人々に彼らの消息を尋ねて回っていましたが、遂に喜ばしいニュースをミープへ伝えます。

 オットー・フランクがアムステルダムに戻り、ミープと再会したのは6月3日のことでした。

私たちは互いに見つめ合った。言葉は必要なかった。彼は痩せていたが、それをいうなら昔からずっと痩せていたのだ。小さな包みを抱えていた。私の目が涙に溺れた。心臓が溶けた。それから不意に、それ以上のことを知るのが怖くなった。何も知りたくなかった。聞こうとも思わなかった(『思い出のアンネ・フランク』)」。​

アンネの日記の出版

​ ミープはオットーから、エーディトの死を知らさせました。ソ連赤軍によって1月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から解放された彼は、それから独自に愛する家族の消息を調べ、妻が亡くなった事実と、ふたりの娘がドイツにあったベルゲン=ベルゼン強制収容所へ送られたことまでを突き止めていました。この収容所が、ガス室の置かれた「絶滅収容所」でなかったことは彼に大きな希望を抱かせていたものの、7月になってその望みは無残に打ち砕かれます。マルゴーとアンネの姉妹は、イギリス軍によって収容所が解放される日を待つことなく、劣悪な環境の中で亡くなっていました。マルゴー19歳、アンネ15歳という若さでした。

 言葉ではとても形容できない悲しみの底に突き落とされたオットーに、ミープは1年近く持ち主の帰りを待ち続けていたアンネの日記帳を、彼女の遺品として手渡します。この日記がその後世界中の人々に読まれ、アンネ・フランクが生きた証として知られることになるとは、当時のミープはまだ想像もしていなかったでしょう。

 ヒース夫妻が暮らしたアパートの家主女性は、​無事フンゼストラートの自宅へ戻ることができました。しかし彼女のふたりの孫のうち、ユトレヒト(オランダ中部の都市)の里親に引き取られた幼い妹はジフテリアで死亡、アムステルダム中央駅で連行された娘夫婦の消息はつかめず、イギリスにいるはずの夫からも便りはありませんでした。彼女もまた、暗黒の時代を生き延びたものの愛する家族と再会を果たすことができずに苦しんだ戦争犠牲者のひとりといえます(のちに夫は帰国し、再会を果たしました)。

​ ミープが〈隠れ家〉の住人の生活を支えるために苦心した食糧調達に協力し、自らもユダヤ人を匿っていたことで逮捕された青果店の主人は、戦後収容所から生還して店を再開しました。またヒース夫妻が独自に匿っていた大学生については、〈隠れ家〉が発覚したことでヒルフェルシュムの実家へ戻ることを余議なくされたもののオランダ解放まで生き延び、戦後アメリカへ移住したという知らせがミープの耳に届いたといいます。

 トラフィス商会に復帰したオットーは、ヒース夫妻と生活を共にすることになりました。しばらくはフンゼストラートのアパートで暮らしていましたが、間もなく3人は同じ通りに住んでいたヘンクの姉のもとへ身を寄せます。そして1947​年に入ると、かつてフランク一家が住んでいたメルヴェデプレインから西に程近いイェーケルストラート65番地へ揃って転居しました。5月、ミープはトラフィス商会を正式に退職します。

​ オットーはスイスに住む母・アリーセのために日記の文章を独自にドイツ語に翻訳していましたが、多くの友人の勧めと説得を受けて、1947年6月にオランダ語の初版本『Het Achterhuis(後ろの家)』を出版します。彼は当初から、ミープがこの日記を読むことを願っていましたが、辛い過去が思い出されることを嫌ったミープはなかなかその求めに応じられずにいました。しかし第2版が発売され、海外でも出版が決まると、彼女は遂に日記に目を通すことを決心します。ミープは初めて日記を読み終えたときの思いを、次のように書き記しています。

​「途中一度の中断もなく、私は全巻を読みきった。最初の一語に目を落とした瞬間から、アンネの声が遥かに私に語りかけてくるのが聞こえた。読んでいるうちに、時間を忘れた。アンネの声が次々に本の中からこぼれ出てきた ―― 躍動感と、揺れ動く気持ちと、好奇心と、溢れる感情に満ち満ちた声が。もはや彼女は遠くにいるのでもなければ、死んでいるのでもなかった。再び私の心の中で生きていた。(中略)最期の一語を読み終えたとき、私の胸には、これまでずっと懸念していた苦痛はなかった。とうとうこれに目を通して、良かったという気持ちしかなかった。心の虚ろは癒された。多くのものが失われたが、アンネの声は決して失われまい。私の若き友は、この世界に素晴らしい遺産を遺してくれたのだ『思い出のアンネ・フランク』より)」。

その後のミープ・ヒース

​ 1950年7月、41歳となっていたミープは息子のパウルを出産し、ヒース家に新たな家族が誕生しました。オットーはその2年後にスイスへ移住し、1953年にやはりアウシュヴィッツで過酷な経験をしたエルフリーデ・ガイリンガー(Elfriede Geiringer, 1905~98)と再婚します。その後の生涯を『アンネの日記』の普及に努めたオットー・フランクは1980年にスイスのバーゼルで亡くなりましたが、彼の働きかけにより、ミープとヘンク、クラーレル、エリーの4人(コープハイスは既に死去していました)は1972年、エルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコースト犠牲者追悼のためのイスラエル国立記念館)から「諸国民の中の正義の人」の称号とメダルを贈呈されました。

 世界各国で翻訳刊行された『アンネの日記』は、舞台や映画でも上演・上映されて大きな反響を呼び、その度にヒース夫妻をはじめとするかつての〈隠れ家〉支援者たちはメディアなどによって英雄視されましたが、彼らは一貫して「自分たちは人間として当然のことをしたに過ぎない」という姿勢のまま、多くを語ろうとしませんでした。

 1983年、アメリカの小説家でジャーナリストのアリソン・レスリー・ゴールド(Alison Leslie Gold, 1945~ )がヒース夫妻の存在に注目し、翌年夫妻へのインタビューに成功、ふたりの体験が『アンネの日記』に側面から光を当てる貴重な証言となり得るという粘り強い説得を続け、遂にミープの承諾を受けて1987年、彼女との共著『思い出のアンネ・フランク(英題:Anne Frank Remembered)』の出版に至りました。

​ ミープを愛し、献身的に支えた夫のヘンクことヤン・ヒース(Jan Gies)は1993年1月にこの世を去ります。これによりミープは、アンネらの当時の生活に関する唯一の生存者となりました(アンネの友人だったハンネリジャクリーンは現在も存命)が、彼女はドイツ連邦功労十字章、またオランダ女王より叙勲を授かります。それまでも彼女のもとには世界中から多くの手紙が届き、ミープはそのひとつひとつに目を通し、可能な限り返事を書きました。

 

 2010年1月11日、ミープ・ヒースはオランダ北部のホールンにて、100歳というその波乱に満ちた生涯を終えました。しかし現在も、彼女のウェブサイトMiep Gies her own storyが息子のパウルとその妻らによって運営され、世界中から寄せられる質問にメールで返信しています。このサイトでは、特に多く寄せられたであろう100の質問が掲載され、ミープがこれに答えています。その質問はごくありふれたものから非常に興味深いものまで多岐に及びますが、このページの終わりに彼女は「Advies van Miep Gies」という3つのアドバイスを書き記しています。

 最後にその3つをご紹介させていただきます(原文オランダ語)。

挑戦しないより、するほうが良い。挑戦しないことは最大の失敗です。

人を一緒くたに判断しないこと。人間はひとりひとり異なり、それぞれが自分で決断を下します。私の家族でさえ、私に似ている者はいません。

危険に晒されている人を助けることは、勇気があるかないかの問題ではありません。それぞれの人生において、何が善で何が悪なのかを見分けることです。

 ミープ・ヒース

毎年5月5日のオランダ解放記念日の前日、5月4日は戦没者追悼記念日です。写真は本年、アムステルダム中央広場での式典に参列するアレクサンダー国王とマキシマ王妃。

1954年にオランダ赤十字社より発行された、アンネの公式死亡通知。

24歳のミープ。

息子のパウルとミープ。

1964年、スイスのオットー宅を訪れたヒース夫妻と息子のパウル。

1990年頃のヒース夫妻。

​晩年のミープ。

オペクタ商会の人々。.jpg

ミープ・ヒース

Ken je een vrouw die Miep Gies heet ?

知っていますか?